2018年7月25日水曜日

うかれている 「昔日の客」関口良雄

東京オリンピックまで、ちょうど2年、ということらしい。
どこもかしこも(というのは、テレビの中の世界だが)、オリンピック特集。
過去の映像なども流している。
そして、今の映像も。
新国立競技場が、どれぐらい出来上がっているか。
みんな「わくわくしている」らしい。

まったくしていない自分は、なんなのだろう。

連日の猛暑に、スポーツのことなど考えられない状態。。

いや、それにもまして。
先日の、サッカーワールドカップのときと同じ感情だ。

全国民が一体となって


一体となって?

勝手に一体にしないでほしい。

そんな気持ちがわいてきている。
だれか、どこかで、おかしいと思う人はいないのだろうか。
何千億円もかけた建築費。
人員をつぎ込んでの準備。
ああ、本番当日は、どうなるんだろう。

「熱い応援が」繰り広げられるんだろうなあ。

なにもかもが、ありきたりの表現に埋めつくされているようで。
そこに、多様性はあるのか。
そこに、寛容はあるのか。

がんばれニッポン だけでいいのか。

なんとなく、世間から遠ざかっていく自分を感じる。


関口良雄の「昔日の客」(夏葉社)を読んだ。
古書店「山王書房」の店主である著者が、色んなところに書いていたものをまとめたもの。
著者は、ちょうどわたくしの親の世代にあたるらしい。
還暦を前にして、今まで書いたものをまとめて出版しよう、と思ったらしい。

しかし、その時すでに本人はがんに侵され、出版を待たずして旅立った。
山王書房には、尾崎紅葉、尾崎一雄をはじめ、様々な有名無名な人々がかかわっていたらしい。
それらの思い出を、小冊子に連載などしていたものらしい。

今となっては、文学史の中に埋もれて、想像するしかないような人たちとの交流が、なんとも楽しく(ときに哀しく)綴られている。

古書店の店主、といっても、決して堅苦しくなく、むしろ「酔うと、大声でうたう癖があったので」というくだりは、著名な作家との会合でも、見境なく発揮されたりして、ほんまに大丈夫かいな、と思ったりする。

こういう時代があったのだ。
作家が、作家然としていて、しかし、作家然としていなかった時代が。

また、すべての文章からにじみ出てくるのは、あたりまえなんだけど、本に対する深い愛情である。そして、本を愛する人たちとの、信頼のようなもの(絆 とは言いたくない)である。
それがなかったら、古書店はできないのだろうなあ。

考えてみれば、古書店とは不思議な商売だ。
本を愛していなければできない商売だろう。
誰もが欲しがる本を、できれば揃えたい。
しかしそれは、商品となるべきものである。
決して個人のコレクションには、なりえないのだ。

だからこそ、売るときには、買い手に対する信頼が必要になるのではないか。
その本の価値を、買った人はわかってくれる、という信頼が。

図書館で借りてきたのだが、ながらく絶版となっていたものが、何年か前に復刻されたものである。

2018年7月22日日曜日

晴耕雨読 「おらおらで ひどりいぐも」

連日 猛暑である。
38度が 何日も続くとは、異常。

子供のころは、32度を超えると、暑ッ となって、プールへ行くか、アイスを食べるかなど していたような気がする。
京都で36度、とかいうニュースを聴いて、盆地は暑いねんなあ、そんなとこに住んでなくてよかったなあ、などと思っていたものだ。

ところが。
いまや大阪でさえ、連日37度である。
体温より高いとは、どういうことか。
毎日 お風呂に入っているようなものだ。

さらに なぜか今年は、夕立というものがほとんどない。
お昼がからっと晴れて、30度を超える気温になると、かつては 夕方ごろに 入道雲がもくもくとわきあがって、ざあっとひと雨きたものだ。

なんだか、いままでの 子供のころからの 自分の常識が 通用しなくなってきているようだ。
都会に限らず、いたるところで 今までの常識は通用しないのかもしれない。

日本国中、道路という道路は 土からアスファルトに変わり、いまや国土は 平らな人工物に覆われた状態なのだ。きっと。
こんな状態にしたのは、土のデコボコよりも、アスファルトの滑らかさを 選び取ってしまった、わたしたちの責任なのだ。きっと。

気候は 天から与えられたものだから、この理不尽とも思える気候には 天にうらみを言いたくなってしまうが、責任の一端は 自分たちにあるのだ。きっと。

そして、人工物でまみれた世界で 生き残るためには むりやり生きる方法を考え出さねばならず、自然に体を冷やすことができず、機械に頼って冷やすしかない。
冷房。
そして多くの電力が消費される。
消費されるとういことは、更に生み出されるということ。
供給されるものがなければ消費されない。
供給量は どんどん 増えていく。
それもまた、自然に与えられたものではなく、自分たちが無理から作り出さないといけないものだ。

この循環を、もはや止めることはできない。
生まれたときから、この環境で生きてきているのだから。
生まれたときから、道路がきれいで、電気は無限、という世界に慣れ親しんできているから。

そういう自分は、変えようがない。
(もう、だいぶ 歳 いきましたし)

文句を言いながらも、こうやって生きていくしかないのだな。
生きていくためには、どこかで折り合いをつけないことには。

そう。
なんだかんだ 言っても、生き抜いていくことが大事なのだ。
生きていることが、だいじなのだよ。きっと。


以上、「読書」とはなんの関係もない話である。

そろそろ学校も夏休みなのかなあ。
わたしらが子供のころと今とでは、学校の時間割も違うし、年中の行事も違ってきているらしい。(子供がいないから、よお知らんのです。)

とにかくも、1年が半分以上過ぎたことは間違いない。
あっという間に、6割方、行ってしまうのだろう。

ということで(どういうつながりか、自分でもよく分からないが)、ぼちぼち読書日記も再開したいなあと考えたのだ。

そう、あまりの暑さに、暇があってもどこにも行く気がせず(もともと出不精なのだ)、冷房のきいた部屋で(電力ありがとう)、ちまちまと読書を続けているのです。

今年下期の芥川賞、直木賞の発表も、先日あったねえ、
で、今年上期の芥川賞受賞作

「おらおらで ひどりいぐも」

を読んだのだ。

これはすごい。あ、すごい という言い方は芸がないなあ。
とにかく、衝撃と感動の一大傑作だ。

出だしの
「おらだばおめだ。おめだばおらだ」
のリフレインで、まずぶっとぶ。

この言葉のリズムはなんだっ! と思ったら、すぐに答えがあった。
ジャズだ。
作家、60代にして、ジャズ。
いや、確かに、60代なら、「ジャズ」なのだ。
それが、東北弁で、実にすらっと出てきて、この世界に入らされてしまう。

圧巻は、過去・現在・未来の大勢の自分(桃子さん)が、列をなして亡夫の墓参りに行くシーン。
圧倒される、とはこのこと。

その迫力は、最後まで一貫していて、すごいものを読んだ、という気分にさせられる。
ああ、結局 「すごい」 としか言うてませんね、わたくし。


「晴耕雨読」
というが、雨でなくても、外には出たくないから、結局「読読読読」になる。
しばらくは、つづくのだろうなあ。

2018年7月15日日曜日

日日

しばらく ブログの更新を 怠っていた。
この間に、大雨があり、炎天があり、また大雨があった。

ファンである タイガースの試合は追いかけ続けているが、
ずっと試合結果だけを見ていることに
それをブログに書いているだけという自分に
なんとなく これでいいのだろうか という気分に なってきている。

更に追い打ちをかけているのが サッカー。
ワールドカップのニュースが、連日報道されているのを見て、
なんだかなあ という気分になっている。

「日本国中の注目を集めて」
「全国民が一つになって」

なってませんけど。

スポーツは楽しい。
次に起こること に いつもわくわくする。
それは、どんなスポーツを見ていても 同じ。
馴染みのないスポーツでも、競技をしている選手の 一生懸命さに 感動する。

する のだけれど。

「全国民が」「一つとなる」ことに、価値を見いだせないのだ。きっと。

ある種の虚しさが空しさが 自分の中に 巣くってしまっている。

ここから 抜け出そう。
なんとか。