2014年1月31日金曜日

【新・片づけ術 断捨離】やましたひでこ(マガジンハウス)

今更ながら「断捨離」です。つい最近、著者のやましたひでこさんをテレビで見て、その時に、
「断捨離という言葉だけがひとり歩きしている。単なる片付け術だと思われているけれど、本当は生き方の提案なんだけど。。。」
ならば、というわけで読んでみたわけです。とにかく「実際に見てみないと信じない」という人間なので(悪クリスチャンの言葉ですね)。

で、確かに書いてある内容は、「生活をいかにスッキリさせるか」ということが主眼ですね。そのために、ということで「断捨離」という考え方ができているといった印象です。もともとは「断行」「捨行」「離行」という、ヨガの「行」からとった言葉だとのこと。
それにしても、書名にきっちりと「新・片づけ術」と題しているのですから、片づけ術ととられても仕方ないですね。著者が気にしている気持ちもわかりますけどね。中で何度も「ただモノを片付けるだけでは、生活は変わらない」ということを何度も書いてますし。うまく収納しても、それは「見えなくなっただけで、そこには存在したままである」ということですね。わかります。
中にいくつか、実際に「断捨離」した方々のエピソードが載ってるんですが、これ、どうなんでしょう。ちょっと行きすぎ? という気もします。断捨離の結果、離婚に成功(!)したとか。独り立ちできたとか。
ま、人生、それぞれですから。やりたいことをやればいいと思いますよ。そのなかで「断捨離」もひとつの方法ですね。
わたくし自身の感想。一度取り組んでみたい、と思ってしまいました。はい。洗脳されやすいタイプです。ども。

2014年1月27日月曜日

文楽鑑賞

ぶたこな日々もどうぞ。

昨日、文楽を見に行きました。大阪は日本橋(にっぽんばし nippon-bashi、と発音します)にある国立文楽劇場。ぶたこも書いているとおり、入場者数が少なければ補助金カットという危機。地元の大切な伝統文化なので、この機会に一度は見ておこうと思ったわけ。なくなってしまうわけではないでしょうが。

出し物は「面売り」「近頃河原の達引」「壇浦兜軍記」。
初春公演の楽日でありまして、それぞれめでたい出し物のようです。いや、文楽のことは高校時代に学校の授業の一環で観たきりで。そのときちょっとした解説(人形の動きや筋のことなど)を教えてもらったきりで。詳しいことはわかりません。ちなみにその時の演目は「曾根崎心中」でした。道行の場面が、静かな迫力があったことを覚えています。

義太夫節などはときどき落語の中に出てきたり、テレビの特集でちょっとだけ歌ってはるのを見るぐらい。どうやら何をしゃべっているのかは分かりにくそう(それが味というものかもしれませんが)。
で、何も知らずに見てしまうと何を演じているのか、筋もわからないかもしれないと思い、直前に図書館で「文楽入門」という本を借りてきて、一夜漬けの文楽学習。おかげで予習はできたので(ほんのちょっとですが)、見どころも分かってみるとおもしろみも増すというもの。音楽もそうだけど、何かを鑑賞するときには予習していくのがお勧めです。何もわからない真っ白なままで感覚だけで感じるものも大事でしょうが、いかんせん、普通人の感覚しかないわたくしなどは、「真っ白な感覚」で鑑賞すると、真っ白なままで何も得ることなく終わってしまうような気がします。

そんなわけで。楽しみも抱えつつの鑑賞です。楽日ということもあってか、補助金問題もあってか、昨日の第二部は満席。ちょっと早めに行って1階のレストランで食事でも、という話もあったけれど、レストランも満席。いやはや、うれしいことです。
座った席は上手の、御簾の前の席。大夫の声も三味線の音も、直に聞こえそう。

最初の「面売り」。「おしゃべり案山子」という役どころ、ほんまの案山子かと思ってたのですが、そういう名前の売り子さんでした。人形の所作、音楽の迫力(三味線が5人もいてはった)。登場人物はふたりきり。どこか萬歳のようでしたね。めでたい出し物なのだろうなあと思いました。

10分休憩を挟んで、「近頃河原の達引」。まずは「四条河原の段」。暗い中に一本の柳の木(だと思う)。住大夫さんの語りで、伝兵衛が勘左衛門を殺めてしまう場面。
義太夫節は、歌うところと(歌謡)語るところとのバランスが聴かせどころとか(一夜漬けの知識です。間違ってたらすみません)。で、住大夫さんはそのバランスが絶妙です。しかも言葉が分かりやすい。いや、わたくしのような文楽素人の若僧が言うようなことではありませんが、ほんまに感動しました。
そして。伝兵衛が勘左衛門の無理無体に耐えかねて、ついに小太刀を取り出して立ち回り、というその時に、舞台後ろの幕がぱあっと落ちて、そこには鴨川を挟んだ四条河原町の茶屋のぼんやりとした風景が。そしてどこからともなく聞こえてくる座敷歌。それをバックにふたりの斬り合いがあるのですね。いやあなんとも映画的というか劇的な演出です。
舞台が替わって演者も替わっての「堀川猿回しの段」。伝兵衛と契りを交わしたおしゅんの家には、三味線を教える盲目の母親と猿回しを生業とする兄の与次郎。はじめに母親が稽古をつけている場面。面白いのは弟子の歌い方を聞いて「これ、そこはそうではなく、こう歌うのじゃ」と母親が歌って聞かせるのですね。これ、案外難しいのではないでしょうか。ちょっと「うまくなく」歌うわけですから。といって、素人耳にはほんのちょっとの違いはよおわからんのですが。
で、この場面ではなんといっても与次郎のキャラクターが楽しませてくれます。母親のため妹のため、という心意気は高いのですが、その実は臆病で気が小さい。今やお尋ね者となった伝兵衛には妹を近づける訳にはいかない、しかし伝兵衛には力では勝てそうにもないから。。。などという行きつ戻りつの感情がとても愛すべき存在といった風。
忍んできた伝兵衛を家から追い出そうとして、間違って妹おしゅんを放り出し、伝兵衛を家にかくまってしまうという大失態。まるで新喜劇の世界です。その上ふたりの門出にと猿回しをするところなど、まあなんというか、いろんな出し物を出しましょうといったところでしょうか。
で、文楽の人情劇なら、あの世で寄り添いましょうぞとふたり手を取り道行に、となりそうなところで、母親も兄与次郎も、死んではならじ、逃げれるところまで逃げなさいという、どこかハッピーエンド的なところも、めでたい時の出し物なのかもしれませんね。

30分の休憩の後、「壇浦兜軍記」の「阿古屋琴責の段」。平家の落人景清の行方を聞き出そうと、景清の恋人阿古屋が連れて来られます。阿古屋は景清の行方は知らないといいますが、景清に個人的な恨みがある岩永左衛門は厳しい詮議を要求します。しかし聡明な代官重忠は、阿古屋に琴、三味線、胡弓を弾かせます。阿古屋の弾き語りには景清への思いがこもり、その言葉には嘘がないと断じ、阿古屋を解放する、という話。
はっきりそれと分かる悪役、岩永左衛門。真っ赤な顔にどんぐり眼、口はずっとへの字というか半円形に曲がっています。それに対する重忠は、いわゆる絵に描いたような二枚目。さらに阿古屋はきれいな花魁の着物に髪にかんざしも賑やかに。こういうはっきりと分かる演出も伝統芸能ならではでしょう。
そして何より見どころは、琴、三味線、胡弓を奏でる奏者と人形との一体感。胡弓は初めて演奏しているところをみたけれど、弓の弦は分厚くてしかも結構緩んでるんですね。それでどんな音が出るんだろうと思ったら、これが結構立派な音でびっくりしました。阿古屋の胡弓の演奏にあわせて、火鉢にあたっていた岩永左衛門が、ついつい火箸で胡弓を弾く手真似をしてしまい、あちちちちっというのも面白かったです。

3つの楽器を自在に演奏する阿古屋を見て、これはもう、ほとんどロックのギターソロやなあと思ってしまいました。胡弓に至ってはジミー・ペイジを思い出したりして。いやちょっと毛色が違いすぎますが。

そう、お芝居と音楽が一緒になっているという点では、オペラに似てますよね。聞かせどころの一節が終わると拍手が来るのも似てる。名前を呼ぶのも「ブラボー」に似てる。
そして、三味線がメロディを奏でるのに合わせて、義太夫が語る、というのはどこかラップみたいです。こうして考えてみると、いろんな芸術には共通点もあるということでしょうか。そんなこと言ったら文楽の人に怒られるかもしれませんけどね。

なんとなく「伝統芸能」というところから、敷居の高さも感じていましたが、実際に劇場に足を運んでみると、特に普通の音楽会やお芝居と変わりのない雰囲気でした。みんな普通の服着てたし(着物姿のかたもちらほら見かけましたけどね)。

というわけで、初の文楽体験は楽しいひとときとなったのでした。機会があったらまた見に行きたいですね。

2014年1月25日土曜日

【刺青の男】レイ・ブラッドベリ(小笠原豊樹訳・ハヤカワ文庫)

ブラッドベリの、かなり古い作品です。映画にもなりましたね。
語り手がある夜、一緒に野宿することになった見知らぬ男。その男は体中に刺青がありました。男の言うことには、夜になるとその一つ一つが息を吹き返し、それぞれの物語を始めるのだとか。その夜、語り手は様々な物語を体験することになり。。。

ブラッドベリにはお馴染みのオムニバスものですね。18話からなる短篇集で、それが「刺青の男」の刺青から立ち上がる物語である、という設定。タイトルのおどろおどろしさとは関係なく、中身はSF物が多いです。他の短篇集に入っているものもあるし。
それぞれの物語は、いろんなバージョンがあって、短篇集として面白いです。これをわざわざ「刺青の男」としてまとめなくても、とは思いますね。逆に全体を通して読まないといけないのかなあと思ってしまったり。そうすると読み方まで変わってくるというか、作者の意向に沿った読み方をしないといけないのかなと思ってしまうのですね。まあそう固くならずに、一つ一つの物語を愉しめばいいのですけれど。
それぞれの物語は、ほんとうに面白いです。SFをファンタジーやミステリーだけでなく、ペーソスも含めた人間ドラマとしても高めたブラッドベリの真骨頂のような作品が並んでいますからね。あ、SFじゃないドラマもありますよ。

2014年1月23日木曜日

【告白】町田康(中公文庫)

河内音頭に歌われる「河内十人斬り」のモデルとなった事件。相手の家族(女子供を含めて)十人もの人間を斬り殺したのはなぜか。その男の心のうちは、というのを描いた作品。
主人公の城戸熊太郎が、子供の頃から思わぬ方向に導かれ傾き、成長していく姿を、その内面まで深く掘り下げて描いています。
と書くと、シリアスな精神ドラマととらえられそうですが、町田康はそんなことはありません。
こういう実話を元にした作品を書くときに用いられる「ドキュメンタリー」な手法とは真反対に、主人公の心の内面をどこまでもどこまでも、自分の言葉で語りつくそうとします。それが時々長々と講釈めいたことになって、それでもやめられない。そんな文章が果てしなく続く、文庫版で850ページも続きます。いやはや。
しかし、読み終わると「長かった」という感じはしません。何しろ実際に起こった出来事(エピソード)はそれほど入り組んだものでもややこしいものでも長いものでもないのですね、実は。だらだらと長くなっているのは、主人公のひとつの行動の、それを起こすに至った心の動きを、果てしなく追いかけているからで、これがなければ深沢七郎の「笛吹川」ぐらいの分量になっていたことでしょう。
もちろん小説の価値はいろいろで、長ければいいというわけでもないですし、短ければいいというものでもありません。長いものには長いなりの理由があればよいわけですし、短いものにもそれなりの説得力があればそれでいいのですし。世に言われる「名作」というものは長いものにしろ短いものにしろそういうものなのでしょう。
話の作り方も、ギャグがありパロディがあり(たぶん)、思わず笑ってしまう場面もいっぱいで飽きさせません。言い方が間違っているかもしれませんが、落語と講談を一緒にしたような感じです。

で、人生の紆余曲折があって、主人公熊太郎は自分をないがしろにした一家、浮気をした嫁とその家族のうちの10人を斬って捨てるわけですが。
これが何ともせつない。せつないのは、人を斬り殺しても鬱憤は晴れないのですね。それが分かっていながらやらざるを得ない状況。これは辛いですね。

さて、これは河内が舞台となっていて、会話文はほとんどが河内弁なのですが、大阪ネイティブなたこぶでも読みこなすのには時々骨が折れました。見た目には(ひらがなの羅列なので)よく意味がわからないのだけれど、実際に声に出して読むと「あっ」と分かるのですね。ここまでよく書いたなあと思います。会話文を書き言葉にする、それだけでも大変なエネルギーがいったでしょう。町田康はあなどれません。

2014年1月20日月曜日

【千年ジュリエット】初野晴(角川文庫)

「ハルチカ」シリーズ第4弾。前回は地区大会コンクールでの出来事でしたが、今回は夏が終わり、文化祭が始まります。今年の文化祭は特別です。何しろ麻疹の流行で多孔の文化祭はことごとく中止。舞台の清水南高校だけがなんとか延期して開催にこぎつけます。そしてそこでまたもやいろんなミステリーが。それを解決するのはいつもながらの頭脳明晰なハルタと直感で行動するチカのコンビ。
回を重ねるごとにいろんな人のキャラクターが生きてきていますね。その分ミステリーとしての(特に謎解きとしての)面白みがちょっと減ってきているかなという危惧はあります。
しかし、何といってもハツラツとした(そしてちょっと陰もある)高校生のドラマとしては良く出来ていて、ちょっと漫画チックな展開もまあまあ許せるかな、とずっと読んできた読者としては思ってしまうわけですね。これは作者の思う壺なのでしょうが。
今回は、将来有望と思われた元ピアニストがなぜかピアニカ奏者になった話(エデンの谷)、文化祭に間に合うために乗ったタクシーをなぜか暴走させてしまうロッカー生徒(失踪ハードロッカー)、先祖が絶対不利な状況で決闘に望んで、しかし勝ち残った謎を解き明かそうと舞台で再現しようとする演劇部員(決闘戯曲)、ケア病棟で密かにネット人生相談を始める5人の患者たち(千年ジュリエット)。の4編。
ハチャメチャな学園ドラマかと思いきや、思わぬ仕掛けやどんでん返しが最後に待ち受ける。これはもうパターンなんですけど、ハマってしまうと次を期待してしまいますね。さて、文化祭が終わって(彼らはまだ2年)、これからどうなるのやら。

2014年1月19日日曜日

【さようなら、オレンジ】岩城けい(筑摩書房)

今年の芥川賞の候補作。惜しくも受賞は逃しましたけどね。去年の太宰治賞を受賞した作品です。
オーストラリア(だと思われる)に移住してきた二人の女性の話です。ひとりは戦火を逃れてやってきたアフリカからの難民サリマ。もうひとりは夫の転勤についてきた日本人(と思われる)で一児の母。サリマはこの女性を「ハリネズミ」と呼んでいます。
二人の出会いは英語教室。生徒のレベル分けがなく、発音もおぼつかないサリマは語学に堪能なハリネズミを羨ましく思っています。しかし時が経つと二人の関係は微妙に変化していくのですね。それぞれの人生の出来事が色々からんできます。
言葉が通じない=思いが通じない。異国で暮らす孤独。しかし生活はしていかなければならない。生きていかなければならない。言葉だけでなく文化も違う場所で。しかも女性で。ふたりはいろんな壁を乗り越えていかなければならないのですね。
物語は、二人の視点で交互に語られていて、それぞれが希望や悩みを抱きつつ生きているのをよく表しています。人種差別や偏見だけでなく、人生に待ち受けるいろんな障害。それらの壁を超えて生きていこうとする姿がいいですね。ちょっと出来すぎのような感じもしますけど。応援したくなる本でした。

2014年1月16日木曜日

【アンデスマ氏の午後・辻公園】マルグリット・デュラス(三輪英彦訳・白水社)

「愛人(ラ・マン)」で有名な(本人は不本意かもしれませんが)デュラスの、初期の頃の作品です。デュラスを読むのはこれが初めてかもしれません。
感想は...何とも不思議な感じです。
「アンデスマ氏の午後」は、海と街が見える丘にある別荘で、仲買人が来るのを待っている老いたアンデスマ氏の一日。
「辻公園」は、旅商人の男と家事手伝いの女とが公園で話し合う。
どちらも、筋らしい筋はありません。ただ状況が描写されるだけ。「アンデスマ氏の午後」では、籐椅子に座って仲買人を待つアンデスマ氏(かなりの年配で、若い娘がいて、この別荘も娘に頼まれて買ったもの、ということが少しずつ分かる)と、仲買人の娘、仲買人の妻との会話があるだけ。しかもその会話がどうにも成り立っていなさそう。
「辻公園」に至っては、物語のほぼすべてが二人の会話のみ。人生の諦観を感じさせる中年(らしい)の旅商人と、未来への希望を持ち続けようとする(しかし思ったとおりにいかないので苛立っている)若い女使用人。それぞれが象徴的なものなのかなと思うけれど、話はあまり噛み合っていなくて、こちらも何が言いたいのやら、という気もします。
どちらも短い話で(これでだらだらと長かったら耐えられないかも)、物語はこれからどうなるのだろう、というところでハタと終わってしまうのですね。まるで「続きはどうぞ皆さんでお考えください」と言われているようです。だから読後感が不思議な感じで、しばらく心に残るのでしょうね。
ちなみにこれは白水社の「新しい文学」シリーズの一冊です。といっても1960年代の出版ですから、「新しい」というのもその時代の、ということになりますけどね。でも「なにか新しいものをつくりあげよう」という意気込みは感じられます。それもこういう作品を読む楽しみですね。

2014年1月14日火曜日

【恋文の技術】森見登美彦(ポプラ社)

全編書簡形式で書かれた小説です。相変わらず京都を舞台に、と言いたいところですが、今回は京都から能登半島の研究所に派遣されてしまった守田一郎が主人公。というか、語り手です。というか、手紙の書き手です。
大学時代の同僚小松崎くんには恋の手ほどき(と本人は思っている)を。全く歯がたたない先輩の大塚緋紗子さんには宣戦布告を(もちろん失敗する)。家庭教師として教えていた間宮少年には言い訳三昧を。更に妹に、そして森見登美彦に(!)。手紙を書きまくる(と言っていいでしょう)のですね。そしてそれぞれの手紙の内容が絡まって、ひとつの物語になっていくという趣向です。
森見ワールド全開ですね。抱腹絶倒。はっきりいって情けないキャラの守田くんは、研究所の上司谷口さんにいじめられつつ、「恋文指南」を目指してこれらの人たちと文通を続けるのですね。しかし本当の目的は、もちろん自分の恋文を書くことなのであります。そしてその恋文は書けたのか。恋は成就するのか。
阿呆なことを繰り返し、阿呆な文章を繰り返して笑わせておいて、最後にぐっとくる作品です。最後にグッと来るのは、読者(わたくし?)も阿呆なことの証明なのかもしれません。阿呆もいいものです。

【楽園への道】バルガス=リョサ(田村さと子訳・河出書房新社)

19世紀の女性労働活動家フローラ・トリスタンとその孫の画家ポール・ゴーギャン。ふたりの半生を交互に描きながら、時代と戦う反逆精神をいきいきと描いた作品。
にしても。
楽園への道のりは遠かったです。長かったし。
一人称でも三人称でもなく、二人称で話が進むのですね。作者というか著者というか、が、登場人物である主人公に語りかけてくるような。すると作中の人物がとても身近に感じてしまうのですね。作品が一層身近になる。面白い書き方です。(古川日出男の「ベルガ、吠えないのか」と似てます)
そして何よりも、作品自体の推進力というか文章自体の迫力というか、その力強さに圧倒されます。別に変わった表現も変わった文体も(二人称のところ以外は)あるわけでもないんですけど。
さて、ポール・ゴーギャンといえば「月と六ペンス」ですね。モームの名作は芸術に生きる人間の不条理さを描いていましたが、こちらはもっと生々しく、そしてややリアルなゴーギャン像となっています。ゴッホとのいきさつなども描いていますしね。おかげでとても沢山な分量になってますが。
まあ読み応えは十分でしょう。時代の反逆児、という視点は好きな題材なので、長い道のりでしたがなんとか最後までたどり着きました。

2014年1月12日日曜日

パソコンの不調

連休はゆっくりと読書。と思っていた。そして朝、かなり遅く起きてパソコンを立ち上げてログインしようとしたら、「ユーザープロファイルを読み込めません」というエラーメッセージ。再起動させても同じ表示。そして最初の画面(ようこそ、の前の画面)に戻るのである。
これはなんとしたこと。ぶたこにも相談して(いちど、ぶたこのノートパソコンでも同じ症状が出たのだった。その時は回復コンソールで直ったのだった)、回復コンソールなどを検索してみる。前にどうやって回復させたのか、は、覚えていないのであった。
マイクロソフトのサポートページに、回復の仕方などが書いてある。レジストリをいじるらしい。ちょっと不安ではあるけれど、書いてあるとおりに、バックアップのレジストリを探し出し、名前を変更して再起動。
すると。
初期画面に、たこぶの名前すら出なくなってしまった。つまりは失敗したということか。
再び色々検索。新しいユーザー名を作成して、そこにユーザーフォルダからすべてをコピーすべし。そして新しいユーザー名でログインしてみなはれ、というのが見つかった。
早速そのとおりにやってみる。新しいユーザー名を作成。そしてその名前でログイン。懐かしい(パソコンを買ってきた当初の)初期画面が出てきた。エクスプローラを立ち上げて、ユーザフォルダを検索し、新しいユーザー名のフォルダにコピーコピー。完了したところで再起動。新しく作ったユーザー名でログイン。
おお、見事立ち上がってくれました。これで今までどおりの設定が生きているはず。

と。
思ったのですが。
そうはいかなかったのでした。

いくつかのソフトやブラウザの設定、パスワードなどは復活したけれど、日本語入力(たこぶはGoogle日本語入力を使用。ローマ字入力も独自にカスタマイズしている)も初期化。デスクトップも初期化。はれはれ。

幸い、ローマ字設定などはDropboxというウェブストレージにバックアップを作っていたので、復活は容易でした。
ふぅ
それにしても、何が原因でログインができなくなったのか。原因がわからんのが不安。そして、こういう時のために、データのバックアップは定期的にしておかないとアカンのかいなと(今更)思ったのでした。
さ、読書でも(今更)

【笛吹川】深沢七郎(講談社文芸文庫)

甲府に流れる笛吹川の土手の小屋似住む一家、六代の物語。お屋形様(武田家)との関わりの中で様々な苦労や悲惨な出来事が起こるのですね。
淡々とした語り口調で、貧しいものたちのギリギリの生活をいきいきと描き、読み手の安易な感受性をきりきりまいさせるところは、「楢山節考」にも通じます。いろんなシーンで「あ、深沢七郎だ」と感じさせるものがありますね。
とりつくろった表現とかきれいな文章を書こうとかいう気持ちはないみたいに思えます。ありのままの出来事をありのままに描いて、これでどこが悪い!と開き直っているような。その潔さ。
戦国時代ですから、戦に行くのが男の役目。しかし結果は悲惨なことになります。いわばお屋形様に家中が振り回されて死んでいくわけなのですが、それでも「今あるのはお屋形様のおかげ」と信じているのですね。どこか、戦争中の日本を象徴しているのかな、という深読みをしたくなります。
登場人物たちの生き方は、どうにも理屈に合わなかったり、間違っているように思えるんだけど、こちらが分からは文句を言えない凄みのようなものを感じます。これが深沢作品の真骨頂なのでしょうね。
潔く正面切って生きろ、と言われてるみたいです。ちょっと、ご勘弁をと言いたくなる時もありますが。

2014年1月11日土曜日

【犬は勘定に入れません】コニー・ウィリス(大森望訳・早川書房)

「-あるいは、消えたヴィクトリア調花瓶の謎-」という副題がついておりまして、数々の賞を受けたコニー・ウィリスのSF作品です。
1940年の空襲で焼け落ちたコベントリー聖堂にあったはずの「主教の鳥株」(どうやら花瓶のようなものらしいです)を探すために、2057年からタイムトラベルを繰り返す研究員のネッド。しかし度重なるタイムトラベルによる「タイムラグ」(時空差ボケ?)にかかり、静養のためにヴィクトリア時代にタイム・トリップするのですが、実はそこでもある使命が待っていたのでした。しかしタイムラグにかかっているネッドはいまいち事情が分からずじまい。同じようにタイム・トリップしてきた研究員のヴェリティと、時空の「齟齬」を直す手立てを尽くすことになるのですが。
おかしな題名は「ボートの三人男」へのリスペクト。作者のジェロームもちらっと出てきます。
全体がユーモア満点のSF小説なのですが、主な舞台は古き好きイギリス。当時の貴族社会のドタバタを描いていて、なんとも面白いものになっています。気の強い女主人、金魚にうつつを抜かすその夫、甘やかされ放題のその娘。そして何よりもその家の執事! SFでありながら古典的なユーモア小説でもあるという面白さ。
できれば前述の「ボートの三人男」と、ウッドハウスの「ジーヴスもの」のどれかを先に読んでおくことをおすすめします。その両方と、SF時空サスペンスを併せ持った、素晴らしい作品です。数々の受賞も頷けますね。

2014年1月7日火曜日

【死の家の記録】ドストエフスキー(望月哲男訳・光文社古典新訳文庫)

ドストエフスキーがシベリアで囚人生活(?)をしていた時のことを元に書き上げた小説ですね。後の作品の原点とも言われています。
シベリアでの獄中生活。それは想像するような過酷なものでもなかったようです。もっとも、小説ですから、どこまでが事実なのかはわかりませんが。
ゴリャンチコフというのが主人公で、この人の手記、という形で物語が進みます。どんな罪でここに繋がれたのか、ということについてはあまり語られません。というか、ほとんど筋らしい筋もなく、獄中での出来事がただ淡々と述べられているといったようなものです。そしてその中で、この書き手の考えがあれこれとはさまるのですね。まあ長いモノローグを読んでいるようなものでしょうか。
かつては貴族であった主人公が、囚人となって身分の差もなくなり獄中生活を送る、ということで、人間の平等性などに思いを馳せるのですね。ところが終盤になって、囚人が集団で管理者に訴える場面になると、なぜか他の囚人からはよそ者扱いされるのですね。どこまでもついてくる身分差を突然味合わされるわけです。そのための前段が、長い長い長い長い獄中生活の物語なのですね。
ドストエフスキーは今までも何冊か読んだことがあります。この小説がその後の作品の土台になったのだなというのはなんとなく分かりますね。物事を突き詰めて書く書き方。事細かな描写力。その後の作品に生かされていますね。
光文社古典新訳文庫では、巻末に「読書ガイド」がついています。これを先に読むことをおすすめします。作中に出てくるいろんなことがら(笞刑とかスラングとか)が分かって、読みやすくなりますよ。

【ボートの三人男】ジェローム・K・ジェローム(丸谷才一訳・中公文庫)

たこぶ・ろぐから引っ越ししてきました。

読書感想文をぼちぼちとアップしようと思っています。気が向いたらそのほかのこともぼちぼちと。できるだけこまめに、とは心がけていきますが、先の見通しはあまりつきません。今までも計画どおりに事が運んだ試しがないので。でも、ま、とりあえず。

イギリスの古典的なユーモア小説。気鬱に悩む3人の紳士(?)が、テムズ川下りを楽しもうとするのですが、いろんなドタバタが待っている、というまさに古典的なお話です。
イギリス文学としては有名なものらしいです。副題の「犬は勘定に入れません」というのがそのままコニー・ウィリスのSF小説の題名にもなっていますね。
まあ19世紀初頭(と思われる)の話ですから、今からみたらどうしてこれが面白いのか、と思うこともありますけどね。ただ、ユーモアのセンスというのは(特にイギリスは?)昔からこういうものだったのだな、というのがよく分かります。モンティ・パイソンもミスター・ビーンも、こういうところから生まれたのだな、と。