2015年12月31日木曜日

年末の「第九」

もう大晦日である。早いものだ。
年末といえば「第九」。
しかし、捻くれ者である自分はベートーヴェンを聞く気がしない。
というわけで、やはりマーラーである。

マーラーの最後の(全楽章を書き上げたという点で)交響曲である第9番は、自分の中では古今の最高の音楽であり、ベートーヴェンが確立した交響曲というジャンルの音楽の、最後の完成形であると思っている。
これ以降の「交響曲」は、その名前だけを冠した管弦楽曲に過ぎない。

この曲をよく「世紀末」と捉える人がいる。吉田秀和はこの第1楽章を「まさに天国、あの世の音楽」と語ったこともあった(はず)。
しかし、なぜだか自分はこの曲を通して聴くと、聴き終わった時に
「生きていてよかった。。。」
としみじみ思うのである。
それは「こんな素晴らしい音楽を聴くことができてよかった」という単純な思いとともに、音楽そのものへの満足感、充足感、幸福感、そのほかいろんなものが全身に広がるようなきがするのである。

というわけで、年の終わりにマーラーの第九を聴いたのだ。
数年前、BSで放送されていたものの録画。2010年のルツェルン音楽祭。指揮はアバド。
演奏終了後、長い長い沈黙が(黙祷?)会場を包む。オーケストラの能力の高さも相まって(この曲を酷いオケで聴くと暗澹たる気持ちになる)感動的な名演である。

また生きていこう、という気持ちになる。

2015年12月16日水曜日

【豚の報い】又吉栄喜(文藝春秋)

今年もいよいよ押し迫ってきました。毎年同じことを思うのだけれど、今年もいろいろやり残したまま年を越すのだろうなあという気がしています。それにしても、いろんなことがありすぎた一年でした。まだ残ってるけど。

同じ又吉性で、しかしこちらは随分前の芥川賞受賞作家。その受賞作品「豚の報い」
スナックで開店準備をしていたら、豚が飛び込んできた。ホステスのお姉ちゃんにまたがってしまって、ケガなどはしなかったものの「魂が落ちた」(すみません、もっといい感じの表現だったはず)と思ってしまう。バーテン(だったかなあ)の僕は、だったら厄払い(とは沖縄では言わないのだ。なんだったかなあ)に「御嶽(うたき)」に行きましょう。と提案し、店中の人たちで(つまり店を休んで)御嶽参りに行くことに。その道中、そして御嶽のある島(そこは僕の父親のお骨が、野ざらしになっているはずなのだ)で起こる様々な出来事。それをユーモアも交えて、暖かく時に厳しく描いていて、とてもおもしろいです。

これ、もっと話題にならなかったのかなあ。今読んでも、というか、今年の初めに沖縄に行ったからかもしれないけれど、ものすごく沖縄らしさがでている秀逸な作品だと思います。

2015年12月8日火曜日

読書するということ

自分にとって本を読む、という行為は、どういうことなんだろうと時々考える。
多分、現実逃避。
本の中には現実ではないことが(ときどきとても現実なこともあるけれど)書いてある。
読んでいる間は、しばらくの時間だけれど、現実ではないことを体験できる(ような気がする)。

とはいっても、いつもいつもファンタジーの世界にいるわけではない。
また、ファンタジーになりきらない作品を読んでいると、作品の中に入りきることができずに、逆に「なんという現実離れをしているのだ、自分は。こんなことでいいのか。いいわけはない。なんという堕落した生活なのだ」と、逆に自分を追い込んでしまうことになりかねない。

そういう時は、「この本は自分にとっては有益ではないのだ」と思うか「今の自分には有益ではないのだ」と思うか「いつか自分にとって有益となる時が来るかもしれないが、今はその時ではないのだ」と思って自分を納得させる。
カズオ・イシグロの新作は、そんな作品だった。あまりうまくいっていない、と途中まで読んでそう思った。もっと評価がされれば、もっと気になって最後まで読めるかもしれないけれど。
中島さなえはまだまだこれからおもしろくなりそうな雰囲気がある。楽しみかなあ。
山崎ナオコーラは、これからどちらの方向に向かっていくのだろう。問題意識がはっきりしすぎてきたか。もっとぶっ飛んだところに行ってほしい、とおもうのは読者の勝手。分かっています。
町田康は、まとめて読もうかと画策中。
土屋教授(元教授?)は、気持ちが楽になる。
逆に舞城王太郎は、気持ちがカッカとしてくる。いい意味で。「淵の王」は、語り手が見え隠れする不思議な物語。これ、続きがあるのだろうか。この作家のことだから、まだまだ仕掛けがありそうな気がする。と思っていたら読み終わってしまった。放り投げられたような気分。次が読みたくなる。これは作者の思う壺なのか。

【わるいうさぎ】中島さなえ(双葉社)
【反人生】山崎ナオコーラ(集英社)
【破滅の石だたみ】町田康(角川春樹事務所)
【忘れられた巨人】カズオ・イシグロ(土屋政雄訳・早川書房)【途中】
【不良妻権】土屋賢二(文春文庫)
【淵の王】舞城王太郎(新潮社)
【地平線】パトリック・モディアノ(小谷奈津子訳・水声社)

2015年12月7日月曜日

非・作家:中原昌也

毎日いろんなことが起きる。わが家で言えば、先週ぶたこのノートパソコンにお茶をぶっかけてしまった。慌てて拭いた。その時はどうもなかったが、翌日になって電源が入らなくなった。電源を入れてもビープ音がなるだけで、画面は真っ暗。ちょうど寿命ではないか、もともと動作が不安定だったし(何度もプロファイルが壊れた)。買い替えどきを神様が知らせてくれたのだ(神様は便利な存在だ)。そう思って新しいパソコン(タブレット:キーボード付き)を早速アマゾンで注文した。翌日、アマゾンからタブレットは届いた。ダメ元で、もう一度だけノートパソコンの電源を入れてみた。立ち上がった。ただし、お茶を被った部分のキーボードは反応しなくなっていた。とりあえず外付けのキーボードを繋いで、外付けハードディスクにデータのコピーだけはしておいた。
そして、この機会にと(どの機会だか)わたくしのノートパソコンをバージョンアップして、Windows10にしてみた。今のところ快適に動く。インストールしてから、グーグル日本語入力が効かなくなるらしいという情報をネットで見てしまったが、後の祭りである。だが今のところ、再インストールしただけで(つまりアンインストール、インストール)元の辞書、キー設定などはそのまま使えている。大丈夫そうだ。インターフェイスがすっかり変わったのには戸惑っているが。

ということで、なかなか本題に入れないけれど、事ほど左様にわが家の数日を取り上げてもいろんなことが起こったわけ。そして目を世界に転じてみると、あたりまえのことだけれどもっともっといろんなことが、人の人生に関わる大きな出来事が起こっている。怒っている。今時分はどんな時代に生きているのだろうかと考えさせられる。
ネットのボタンを押すだけで、最新テクノロジーのタブレット型パソコンを手に入れることができ、ネットで簡単に世界と繋がる。かつては何十万も出して買っていたものが、こんなに手軽に手に入る。
一方、世界では今日の食べるものにも困っている人達がいる。たくさんいる。それを知っていながらなすすべがない。
いや、それは偽善的な言い方で、実際は何かをなそうという気になれないのだ。

こんなに自虐的な気分になるのは、中原昌也をまとめて読んだからかもしれない。
真面目に私小説を書こうとしているのかと思ったら、いきなり著者本人のモノローグが出てきて、「こんなくだらない仕事はない」などと愚痴る。物語を書いていて、書いている自分に嫌気が差してくるのだろう。それをそのまま、現在書いている物語の中に入れてくるなんて。
そして「嫌じゃ嫌じゃ」と言いながら書かれている文章を、ありがたく読んでいるわたくし。

【悲惨すぎる家なき子の死】中原昌也(河出書房新社)
【待望の短篇は忘却の彼方に】中原昌也(河出文庫)
【映画の頭脳破壊】中原昌也(文藝春秋)
【中原昌也の人生相談-悩んでいるうちが花なのよ党宣言】中原昌也(リトルモア)
【死んでも何も残さない-中原昌也自伝】中原昌也(新潮社)
【子猫が読む乱暴者日記】中原昌也(河出書房新社)
【あらゆる場所に花束が・・・・】中原昌也(新潮社)
【ニートピア2010】中原昌也(文藝春秋)
【名も無き孤児たちの墓】中原昌也(新潮社)

2015年12月5日土曜日

【アンダスタンド・メイビー】島本理生(中央公論新社)

もう随分前に読んだものだけれど。感想をアップするのを忘れていた。いや、ここのところ他のことがいろいろありすぎて。個人的にも世界的にも。何をするにも虚しさをまず克服してからでないとできない時代になってきているような気がする。悲しいことだけれど。

島本理生の、昨年の直木賞候補作。確かデビュー10週年を自ら祝うというか、一区切りとして書いたものだったはず。

確かに島本理生の集大成、という気はします。
それは、まあワンパターンとも言えるわけで(-◎-;)

コンプレックスを持っている主人公と、それを取り巻く人間模様(主に男性)。
特に母親との確執。

ううむ。
よく出来た物語、と思いつつ読んでたんだけど。
宗教が出てきたところで、なんだかなあという感じ。
底に解決を持ってくるようでは、いかんよなあ。
なにか、突き抜けなければならないものがあるような気がします。

それが「集大成」ということで、あらわになってしまったか。