2015年12月8日火曜日

読書するということ

自分にとって本を読む、という行為は、どういうことなんだろうと時々考える。
多分、現実逃避。
本の中には現実ではないことが(ときどきとても現実なこともあるけれど)書いてある。
読んでいる間は、しばらくの時間だけれど、現実ではないことを体験できる(ような気がする)。

とはいっても、いつもいつもファンタジーの世界にいるわけではない。
また、ファンタジーになりきらない作品を読んでいると、作品の中に入りきることができずに、逆に「なんという現実離れをしているのだ、自分は。こんなことでいいのか。いいわけはない。なんという堕落した生活なのだ」と、逆に自分を追い込んでしまうことになりかねない。

そういう時は、「この本は自分にとっては有益ではないのだ」と思うか「今の自分には有益ではないのだ」と思うか「いつか自分にとって有益となる時が来るかもしれないが、今はその時ではないのだ」と思って自分を納得させる。
カズオ・イシグロの新作は、そんな作品だった。あまりうまくいっていない、と途中まで読んでそう思った。もっと評価がされれば、もっと気になって最後まで読めるかもしれないけれど。
中島さなえはまだまだこれからおもしろくなりそうな雰囲気がある。楽しみかなあ。
山崎ナオコーラは、これからどちらの方向に向かっていくのだろう。問題意識がはっきりしすぎてきたか。もっとぶっ飛んだところに行ってほしい、とおもうのは読者の勝手。分かっています。
町田康は、まとめて読もうかと画策中。
土屋教授(元教授?)は、気持ちが楽になる。
逆に舞城王太郎は、気持ちがカッカとしてくる。いい意味で。「淵の王」は、語り手が見え隠れする不思議な物語。これ、続きがあるのだろうか。この作家のことだから、まだまだ仕掛けがありそうな気がする。と思っていたら読み終わってしまった。放り投げられたような気分。次が読みたくなる。これは作者の思う壺なのか。

【わるいうさぎ】中島さなえ(双葉社)
【反人生】山崎ナオコーラ(集英社)
【破滅の石だたみ】町田康(角川春樹事務所)
【忘れられた巨人】カズオ・イシグロ(土屋政雄訳・早川書房)【途中】
【不良妻権】土屋賢二(文春文庫)
【淵の王】舞城王太郎(新潮社)
【地平線】パトリック・モディアノ(小谷奈津子訳・水声社)

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