2016年2月27日土曜日

【ひとりの体で】ジョン・アーヴィング(小竹由美子訳・新潮社)

自分に正直に生きようとすることが、世間と「闘う」ことになるというのは悲劇としか言いようがない。
「ひとりの体で」の主人公ビルは、小さな町で生まれ、寄宿学校に通い、そして自分自身に目覚める。
それはとても自然なことだった。
性的マイノリティを認めない人々。それが普通だった時代を通りぬけ、現在(2010年。ビルは70代になろうとしている)までの物語。
なんとも、読み応えのある大河小説。しかしそこはアーヴィング。一つ一つのエピソードがとても面白く、上下巻各300ページ超え(日本語で)の物語は飽きることなく読み進められる。
まるで連続ドラマのひとつひとつを見ているかのよう。
60年代の偏見と差別。80年代のエイズ禍を経て、それでもなお偏見は残る。
それに声高く抗うのではなく、しかし力強く自分を主張する。
彼を取り巻く多くの人々。彼に共感する人、反発する人。謎解きの面白さも含みつつ、感動を味わえる。
共感を持って読みたい本。

2016年2月25日木曜日

パトリック・モディアノ

【嫌なことは後まわし】パトリック・モディアノ(根岸純訳・キノブックス)
【カトリーヌとパパ】パトリック・モディアノ(宇田川悟訳・講談社)
【廃墟に咲く花】パトリック・モディアノ(根岸純訳・キノブックス)
【暗いブティック通り】パトリック・モディアノ(平岡篤頼訳・白水社)
【サーカスが通る】パトリック・モディアノ(石川美子訳・集英社)
【イヴォンヌの香り】パトリック・モディアノ(柴田都志子訳・集英社)

何かのきっかけで、過去の作品が見直されるということはしょっちゅうあることだ。パトリック・モディアノは、何年も前から翻訳されてきたのだが、どうやら人気は今ひとつだったらしい。それが2014年のノーベル文学賞を取ってしまったものだから、再刊が相次いだらしい。
そういう「賞」には、ミーハー的に敏感に反応してしまうのです。というわけで固めて読んでます(まだ途中)。

固めて読むと、その作家の手法というか、バックボーンというか、一つの流れのようなものが見えてくる。
モディアノでいえば、彼の作品の源泉というか底に流れているものは、どうやら戦争中に行方不明になった父親のことらしい。その後、どうやら一緒に暮らしたようだが。父親はユダヤ系フランス人で、戦時中はなにやらトラブルがあったらしい。そういう話が断片として、あるいは通奏低音のようにいつも作品ににじみ出ているような気がする。
父親のいろんなことが明らかでないところからくる「自分は何者?」という考えが、もディアノの作品の底流になっているようだ。
「暗いブティック通り」では、まさに主人公は記憶喪失で、自分が何者であるかわからない。その他の作品でも、主人公はなんだかふわふわとした存在で、その周りで起こる出来事も、確かに現実なのだろうけれど現実らしさが無かったりする。不思議な感覚だ。
そして現実感に乏しい文章なのに、舞台ははっきりとフランス。パリ。その周辺(あるいはスイスの近く)。書かれた文章から想像できる風景はあるのに、なにかぼやけた読後感。まるで印象派の絵画を見ているかのようだ。ああ、フランスか。
はまると楽しいですよ。

エッセイと解説

暑くなったり寒くなったり、日によって環境が変わる。困ったものだ。年齢を重ねると周りの環境についていけなくなる。体が。気持ちはそうでもないので、そのバランスがまた難しい。難しいことを考えていると気持ちまでも萎えそうなので、いちいち考えるのはやめにしておく。どのみち同じ状態がずっと続くわけでもないのだ。寒い日ばかりでも暑い日ばかりでも、一日交代でもない。

【そのように見えた】いしいしんじ(イースト・プレス)
【放浪の聖画家 ピロスマニ】はらだたけひで(集英社)

いしいしんじを久しぶりに読んだ。なんか懐かしい。書きっぷり。その視点。すべてが平面上にある。日常が物語に流れ込んでくる。いしいさんの目にするもの、耳にするものを私たちはその文章から、いしいさんの目を通して、耳を通して見て、聴く。そうすると今まで見えていなかったものが見え、聞こていなかったことが聞こえてくる。いろんなことがあっていい。いろんなものがあっていい。というのは、言葉にすれば簡単だけれど、ほんとうの意味で自分はそれを受け入れているのか。そんなことまで考えさせられてしまう。癒される、というのとはちょっと違う。でも、このまま生きていててもええんかな、と、ちょっとほっとさせられる。

そのいしいさんの本の中でも紹介されていた画家がピロスマニ。というつながりで、図書館でその名前を見かけたので、これも何かの縁だろうと手にとって読んでみたのだった。
ピロスマニの絵そのものはとても素晴らしいのだけれど、この本はそれぞれの絵の紹介、というものにとどまっているような気がする。まあピロスマニ入門、といったところなのだろうか。妙にグルジア(今はジョージア)にこだわりすぎているようなところがちょっと鼻につくところ。それでもピロスマニの絵はすばらしい。百の文章よりこの絵。


2016年2月18日木曜日

【ヌエのいた家】小谷野敦(文藝春秋)

前に小谷野敦を読んだのがいつだったか、思い出せない。どんな作品だったかも。
タイトルの「ヌエ」とは、語り手(作家の「敦」)の父親のこと。母親が死に、その6年後に父親も亡くなる。母が病に倒れた時に「しんじまえ」と罵った父親。それを許すこともできない息子。やがて父親も痴呆が始まる。もともと暴言と自分勝手な行動ばかりだった父親なので、どこからが痴呆の症状なのかがわからない。いっそ死んでしまえと思う敦。
わたくし自身も2年前に同じような状況で(これほど暴君ではなかったが)父親のち方を見てきたので、ところどころで身につまされる話も。
しかしこれは「小説」なので、どこまでも感情移入できるかというとそうでもない。
そこのところは作者もわかっていると思う。思いたい。
誤嚥性肺炎。胃ろうなど、懐かしい言葉(不謹慎だけど)。どこでも同じような悩み(不理解とか勝手な都合とか)があるものなのだ。
父親の死、となると、軋轢とか和解とか、そういったものが小説の典型なのだが、これはそのどれとも違う。そしてどれよりも現実に近い。ここまで赤裸々にあからさまに書かれると、ちょっと引いてしまうなあ。その点で新しさはあるけれど。

2016年2月8日月曜日

【ウォーク・イン・クローゼット】綿矢りさ(講談社)

久々に綿矢りさ。
「いなか、の、すとーかー」と表題作。
表題作は、いままでの綿矢りさ風というか、女友達、男友だちとの関係を描くもの。で、女友達は自分よりも華やかな世界(タレント業)で生きている。幼なじみんなんだけど、昔からそうだった。つまりはコンプレックスとどう向き合うか、みたいな話か。

で、「いなか、の、すとーかー」は、新進陶芸家の青年が、中年(?)女性に付きまとわれて、東京から生まれ故郷に帰ってくる。しかし、そこにもその女は着いてきて。幼なじみの女友達、男友だち(まただ)に相談するのだが。
展開から言うと、どうやってストーカーから逃げるのか。あるいは逃げきれないのか。などとハラハラする場面もあるんだけど。それだと普通の小説。さすがに綿矢りさは、そんな「普通」の終わり方は用意していないのだった。ほんま、さすが。

2016年2月1日月曜日

1月の読書

気がつけば1月も終わり。日付は2月になっている。
何も書かずに月を終わるのはなんとなく気持ちが悪い。
なので、今月の読書。

【正直じゃいけん】町田康(角川春樹事務所)
【人生を救え!】町田康・いしいしんじ(角川文庫)
【テースト・オブ・苦虫2】町田康(中央公論新社)
【テースト・オブ・苦虫3】町田康(中央公論新社)
【パンク侍、切られて候】町田康(角川文庫)
【まにまに】西加奈子(KADOKAWA)
【愛のようだ】長嶋有(リトルモア)
【権現の踊り子】町田康(講談社文庫)

半分以上がエッセイですね。
特に意識したわけでもないのだけれど。
相変わらず、町田康。やみつきになるものがあります。

久しぶりの西加奈子。これもエッセイ。書かれた期間が長いので、まとまりがどうとかよりも、作者の素顔が見えて面白いです。音楽の趣味が私とは違いすぎて、そこのところはちょっと、と思いますけど。
長嶋有は、途中は今までの長嶋流。エンディングがちょっと気取った感じもあるかなあ。なにか、キメようとしてたみたい。それはそれで面白いけど。というか、グッと来てしまったけれど。感動しつつ、これはこの作家じゃなくても、という気になってしまう。読者は贅沢なのだ。