2018年7月22日日曜日

晴耕雨読 「おらおらで ひどりいぐも」

連日 猛暑である。
38度が 何日も続くとは、異常。

子供のころは、32度を超えると、暑ッ となって、プールへ行くか、アイスを食べるかなど していたような気がする。
京都で36度、とかいうニュースを聴いて、盆地は暑いねんなあ、そんなとこに住んでなくてよかったなあ、などと思っていたものだ。

ところが。
いまや大阪でさえ、連日37度である。
体温より高いとは、どういうことか。
毎日 お風呂に入っているようなものだ。

さらに なぜか今年は、夕立というものがほとんどない。
お昼がからっと晴れて、30度を超える気温になると、かつては 夕方ごろに 入道雲がもくもくとわきあがって、ざあっとひと雨きたものだ。

なんだか、いままでの 子供のころからの 自分の常識が 通用しなくなってきているようだ。
都会に限らず、いたるところで 今までの常識は通用しないのかもしれない。

日本国中、道路という道路は 土からアスファルトに変わり、いまや国土は 平らな人工物に覆われた状態なのだ。きっと。
こんな状態にしたのは、土のデコボコよりも、アスファルトの滑らかさを 選び取ってしまった、わたしたちの責任なのだ。きっと。

気候は 天から与えられたものだから、この理不尽とも思える気候には 天にうらみを言いたくなってしまうが、責任の一端は 自分たちにあるのだ。きっと。

そして、人工物でまみれた世界で 生き残るためには むりやり生きる方法を考え出さねばならず、自然に体を冷やすことができず、機械に頼って冷やすしかない。
冷房。
そして多くの電力が消費される。
消費されるとういことは、更に生み出されるということ。
供給されるものがなければ消費されない。
供給量は どんどん 増えていく。
それもまた、自然に与えられたものではなく、自分たちが無理から作り出さないといけないものだ。

この循環を、もはや止めることはできない。
生まれたときから、この環境で生きてきているのだから。
生まれたときから、道路がきれいで、電気は無限、という世界に慣れ親しんできているから。

そういう自分は、変えようがない。
(もう、だいぶ 歳 いきましたし)

文句を言いながらも、こうやって生きていくしかないのだな。
生きていくためには、どこかで折り合いをつけないことには。

そう。
なんだかんだ 言っても、生き抜いていくことが大事なのだ。
生きていることが、だいじなのだよ。きっと。


以上、「読書」とはなんの関係もない話である。

そろそろ学校も夏休みなのかなあ。
わたしらが子供のころと今とでは、学校の時間割も違うし、年中の行事も違ってきているらしい。(子供がいないから、よお知らんのです。)

とにかくも、1年が半分以上過ぎたことは間違いない。
あっという間に、6割方、行ってしまうのだろう。

ということで(どういうつながりか、自分でもよく分からないが)、ぼちぼち読書日記も再開したいなあと考えたのだ。

そう、あまりの暑さに、暇があってもどこにも行く気がせず(もともと出不精なのだ)、冷房のきいた部屋で(電力ありがとう)、ちまちまと読書を続けているのです。

今年下期の芥川賞、直木賞の発表も、先日あったねえ、
で、今年上期の芥川賞受賞作

「おらおらで ひどりいぐも」

を読んだのだ。

これはすごい。あ、すごい という言い方は芸がないなあ。
とにかく、衝撃と感動の一大傑作だ。

出だしの
「おらだばおめだ。おめだばおらだ」
のリフレインで、まずぶっとぶ。

この言葉のリズムはなんだっ! と思ったら、すぐに答えがあった。
ジャズだ。
作家、60代にして、ジャズ。
いや、確かに、60代なら、「ジャズ」なのだ。
それが、東北弁で、実にすらっと出てきて、この世界に入らされてしまう。

圧巻は、過去・現在・未来の大勢の自分(桃子さん)が、列をなして亡夫の墓参りに行くシーン。
圧倒される、とはこのこと。

その迫力は、最後まで一貫していて、すごいものを読んだ、という気分にさせられる。
ああ、結局 「すごい」 としか言うてませんね、わたくし。


「晴耕雨読」
というが、雨でなくても、外には出たくないから、結局「読読読読」になる。
しばらくは、つづくのだろうなあ。

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