どこもかしこも(というのは、テレビの中の世界だが)、オリンピック特集。
過去の映像なども流している。
そして、今の映像も。
新国立競技場が、どれぐらい出来上がっているか。
みんな「わくわくしている」らしい。
まったくしていない自分は、なんなのだろう。
連日の猛暑に、スポーツのことなど考えられない状態。。
いや、それにもまして。
先日の、サッカーワールドカップのときと同じ感情だ。
全国民が一体となって
一体となって?
勝手に一体にしないでほしい。
そんな気持ちがわいてきている。
だれか、どこかで、おかしいと思う人はいないのだろうか。
何千億円もかけた建築費。
人員をつぎ込んでの準備。
ああ、本番当日は、どうなるんだろう。
「熱い応援が」繰り広げられるんだろうなあ。
なにもかもが、ありきたりの表現に埋めつくされているようで。
そこに、多様性はあるのか。
そこに、寛容はあるのか。
がんばれニッポン だけでいいのか。
なんとなく、世間から遠ざかっていく自分を感じる。
関口良雄の「昔日の客」(夏葉社)を読んだ。
古書店「山王書房」の店主である著者が、色んなところに書いていたものをまとめたもの。
著者は、ちょうどわたくしの親の世代にあたるらしい。
還暦を前にして、今まで書いたものをまとめて出版しよう、と思ったらしい。
しかし、その時すでに本人はがんに侵され、出版を待たずして旅立った。
山王書房には、尾崎紅葉、尾崎一雄をはじめ、様々な有名無名な人々がかかわっていたらしい。
それらの思い出を、小冊子に連載などしていたものらしい。
今となっては、文学史の中に埋もれて、想像するしかないような人たちとの交流が、なんとも楽しく(ときに哀しく)綴られている。
古書店の店主、といっても、決して堅苦しくなく、むしろ「酔うと、大声でうたう癖があったので」というくだりは、著名な作家との会合でも、見境なく発揮されたりして、ほんまに大丈夫かいな、と思ったりする。
こういう時代があったのだ。
作家が、作家然としていて、しかし、作家然としていなかった時代が。
それがなかったら、古書店はできないのだろうなあ。
考えてみれば、古書店とは不思議な商売だ。
本を愛していなければできない商売だろう。
誰もが欲しがる本を、できれば揃えたい。
しかしそれは、商品となるべきものである。
決して個人のコレクションには、なりえないのだ。
だからこそ、売るときには、買い手に対する信頼が必要になるのではないか。
その本の価値を、買った人はわかってくれる、という信頼が。
図書館で借りてきたのだが、ながらく絶版となっていたものが、何年か前に復刻されたものである。
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