2014年3月19日水曜日

【色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年】村上春樹(文藝春秋)

この月は前月にひき続いて、あまり読書が進んでいません。あれをちょっとこれをちょっと、といろんな本に興味が惹かれて、途中まで読んでほったらかしという本が少なくありません。ちょっとでも「読了!」というところまで行かないと。

でもね。つまらない本だったら(それが途中でも、つまらなかったら)最後まで読む必要もないのだという思いもあるのですね。つまらない本を読む時間があったら、面白い本を読みたい。こんなしょうもない話を最後まで読んでどうなるんだ、という気もするわけ。でも最後まで読まないと、本当につまらないかどうかもわからないしなあ。。。などとも思うわけです。

サマセット・モームは、「読書案内」のなかで、「つまらないところは飛ばして読めばよいのである」と書いています。しかし「サミング・アップ」では、「わたしは本を飛ばし飛ばしに読むということも、途中で読むのを終わることもできない」とも告白しています。おそらく両方の気持ちがあったのでしょうね。その気持、わかりますね。

で、村上春樹ですが。出版された時は即ベストセラー。内容よりも「村上春樹が書いた」ということだけで売れるのですね。きっと。それが悪いとは言いませんよ。ある程度の面白さ楽しさは約束されているのだろうと期待する人の気持ちはわかります。

で、実際に読んでみるとね。これが、ちょっと面白くないのですね。
いや、個人的な感想なので許してほしいのですが。文章の表現がどうも馴染めない。まるで下手な英文翻訳を読んでいるような気分になってきます。それが地の文だけでなく、会話文にも及んでいるので大変始末に悪いです。
おかげで物語全体の現実感が薄れてしまっています。

題名だけ見ると、色覚障害を持つ主人公が出てくるのかと思いますが、そうではありません。つくるくん以外の人は、なぜか名前に色が付いているのですね。赤松だとか青海だとか。で、自分だけ名前に色がない。
高校時代のボランティア仲間4人とも名前色が付いている。まあそれはそれとして。高校を卒業してつくるだけが東京の大学に行く(ほかは地元:名古屋に残る)。あるとき他の4人から突然絶縁されてしまうのですね。そしてつくるは死ぬことだけを考え始めます。

なぜ4人は突然つくるをつまはじきにしたのか。つくるはどうやって死の誘惑を乗り越えるのか、とかが物語の中心になってそうなんですけど。

ううむ。やはり文章の堅苦しさというか、難しさが面白さを阻害しているような気がしてなりません。これ、本人は意識して書いているのだろうか。言葉のありようをどれほど考えているのかなあ。
多和田葉子を読んだあとなので、余計にそんなことを考えてしまいました。

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