2014年4月2日水曜日

【ユリシーズ】ジェイムズ・ジョイス

はい。とうとうというか、やっとというか、ついにというか。読みましたよ。「ユリシーズ」
ぶたこに「どういう話やのん?」と聞かれたけれど、ヒトコトでは説明しにくいです。というか、一言で言うと、
「レオポルド・ブルームというやつが、その友達のスティーブン・ディーダラスと、ダブリンの街を過ごすある一日の話」
ということなんですけどね。
特にこれ、といった事件が起こるわけでもありませんし。

18の章に分かれていて(それぞれなぜか「挿話」と呼ばれる)、それぞれに(文学上の)実験が試みられているのですね。
特に後半になると、物語の中で文体が古いものから順番に新しいものに変わっていくとか、戯曲の形式になるだとか。極めつけは最終挿話(ペネロープ)で、日本語訳では句読点が一切ないのですね。丸谷才一訳の河出書房新社版では、感じもなくすべてがひらがなという徹底ぶり。

あ、そうそう、訳本は、丸谷才一他訳の集英社版と河出書房新社版、それから伊藤整訳の新潮社版と、色々読んでみました。この場面はこっち、この挿話はこっち、とかいうふうにね。読みやすいのを探すつもりでそうしたんですけど、どれも読みやすくはなかったです、結局は。

肝心の話の内容は、面白いんだかどうなんだか、というところです。反宗教的な内容が盛り沢山だし、下ネタも盛りだくさん。英語本文で読んだら、もっと面白いことがわかるんでしょうけど、面白さを理解するためには、半端じゃない英文能力が要るようです。

で、それを(無理矢理に)日本語に訳したわけですから、訳しきれなかったところがあったに違いありません。それは想像するしかないわけですが。

逆を考えて見ればわかりますよね。日本語を英文には、完全には訳せないわけですから。
「その手は桑名の焼き蛤」とか「恐れ入谷の鬼子母神」とかいうのを英語に訳せ、といっても、まあそのまま翻訳することができるでしょうけれど、本来の言い回しの面白さはとても伝わらないわけで。

で、どうやらこの「ユリシーズ」の面白さは、そういう英語表現の面白さにあるらしい、という「らしい」しかわかりませんでした。想像の世界ですね。

これを読んで人生が変わるとか、文学の奥深さを感じるとかいうことは、あるのかなあ。あるとしたら、文学の表現方法の可能性、というところでしょうかねえ。とはいえ、句読点のない文章を改めて書いてみようと思う作家はいないと思いますが。こういうのは「コロンブスの卵」で、最初にやった人が偉いのですね。そして、それに続く人が出てくるかというと、そういうわけにはいかない。発想は面白いけれど、発展性はないかなあ。

それでも「ユリシーズを読んだ!」と、人に自慢はできそうです。それが自慢になるかどうかは別ですが。
そして、これから読もうとする人にアドバイスを送るとしたら?

別にこれを読まなくても、後悔することはないと思うよ、と言いたいですね。

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