【コンクールでお会いしましょう-名演に飽きた時代の原点】中村紘子(中央公論新社)
【ピアニストという蛮族がいる】中村紘子(中公文庫)
なぜか「さん」づけにしてしまいますね。音楽家としての高みにいらっしゃる方なので、ついつい(いちおう音楽「も」しているものとしては)尊敬の表現をしてしまいます。
そして、この2冊を読んで感嘆。音楽のみならず文章もとても素晴らしいのです。
こういう、本業が作家でない人が書く文章となると(とくにこういう、ある一芸に秀でていて、その世界の裏側まで知り尽くしていると思われる人になると)、文章の上手下手よりも、その内容に目がいってしまいがちになりますし、書いている方も「こんな話がおもしろいでしょう」というような話しっぷりになって、それがちょっと「鼻につく」こともあるんですけれど、この方の各文章にはそういう「鼻につく」ムードがまったくありません。
といって、ただ「素人ウケする」話だけかというとそんなことはなく、いちおう音楽に詳しい(クラシックにも詳しいんですよ)わたくしなどが読んでも、面白い+ためになる、勉強になるはなしも出てくるわけです。
そう、一流の雑談でありながら、一流の音楽評論まで、同じ文章の中でやってしまうのですね。
これ、とてもとても並の人では出来ないことなのですよ。
さて2冊のうち「蛮族がいる」のほうがかなり以前に書かれたもの。ちょうどホロビッツが亡くなった時、ということです。
ピアニストの裏話、という要素が強いものですが、それぞれのピアニストを通しての文化論にまで行き着いているような気がしました。特に日本のピアニスト、久野久子、幸田延のくだりは、日本のクラシック音楽の裏歴史のようなものを見る思いがしました。
「コンクールで」は、表題どおり、現在の世界中で行われているコンクールの実情、その裏側(裏側ばっかりですね)を取り上げています。
コンクールの話も面白いのですが、副題にある「名演に飽きた」という表現がとても面白いです。というか、考えさせられます。
CDやネットの普及で、今や「完璧な演奏」はあたりまえ。「名演」などはゴロゴロ生まれてしまう。じゃあ聞き手は何を求めるのか。演奏「プラスアルファ」を求めているような気がする。という指摘。
確かに「物語」が多すぎますね。物語を持っている演奏家、音楽家が。
音楽はもっと純粋なもの、という考え方は、もう通用しないのかもしれませんね。
歌は世に連れ、だけれど。
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